なかなかコロナが治まってくれませんが、ようやく少しずつ減ってきました。
特に国は何もしてくれないし、世の中は営業しているところも多いので私だけ自粛しているのもなんだかな・・と思ったりもします。
ありがたいことに待ちくたびれている生徒さんも多いようなので、早ければ10月からの再開を考えています。もう少しだけ御辛抱のほどを。
さて、久しぶりに囲碁と武将のお話。そろそろ、戦国時代と言えば、というこのお方。
「織田信長」
を取り上げます。
世間的に信長に囲碁のイメージはあまり無いでしょうね。どちらかと言えば南蛮渡来の地球儀やらを好んでいたように感じるかもしれませんが、実はそうでもありません。
舶来品はよう分からん!と放り投げることも・・(笑)
多分、ですが、信長が一番好きなのは「相撲」だと思います。
「うつけ者」と言われていた若い時分も相撲ばかりしていたし、晩年も相撲大会を開いて優勝者を家臣に召し抱えたりしています。
デーモン小暮閣下(大の相撲好き)は信長の生まれ変わりという説も・・あ、でも閣下は10万年生きてるんだっけ(笑)
じゃあ体育会系で囲碁なんてやらないか・・と思ったら、なんとそうでもありません。
実は当時碁の名手と言われていた「本因坊算砂」の碁に感銘を受けて、
「そなたこそ真の名人」
と称賛して家臣として召し抱え、五子置いて打っていたとか。まあ多少算砂が忖度していたであろうことを考慮しても、三段~四段くらいはあったのではないでしょうか。
「本因坊」という名跡が落語で言えば「三遊亭」や「古今亭」みたいないわゆる家元みたいになるのはもう少し先ですが、「本因坊」の元祖がこの算砂と言われています。
「名人」と言われたのもこの信長の言が最初とされます。名人と本因坊の由来が信長に凝縮されているのです。面白いですね。
この本因坊算砂と信長、実は超有名なホラーエピソードがあります。
先週もホラーな話をしてしまいましたが・・・
それは、かの有名な「本能寺の変」が起こる前日のことでした。信長は算砂と鹿塩利玄(この人も強かったそう)を呼び寄せて対局させ、それを観戦しておりました。
自分で打たずに観戦する辺り、信長は現代ならスポーツ観戦とか好きなオヤジなのかもしれません・・
それはともかく、その対局で非常に珍しい、「三コウ」という形ができました。これは将棋で言えば「千日手」。現代風に言えば「無限ループ」。
つまり堂々巡りの形になってしまいました。
ちなみに私は一度も自分の対局で「三コウ」になったことはありません。他にもいくつか堂々巡りの形があるのですが、一度も出会えません。まあ滅多にないということです。
そんな珍しい「三コウ」ができたのを、算砂と利玄は「凶兆」として信長に伝えます。しかし信長は、「珍しいものが見れた。吉兆だ」と言って取り合いませんでした。
凶兆か、吉兆か、その結果は皆さんご存知の通り。
あまりに話ができすぎていて後世の創作とする向きもありますが、
信じるか信じないかは、あなた次第です。
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