さて、前回取り上げた今川義元ですが、「海道一の弓取り」と呼ばれたように、決して弱い武将ではない。という話をしました。むしろ当時の勢力版図としては関東では最大の勢力を築いた優秀な武将です。
それがなぜ織田信長に桶狭間の戦いで負けてしまったのか。ここは未だ解明されていない戦国ロマンなのです。
まず、いわゆるポピュラーな桶狭間の戦いの顛末を簡単にまとめますと、
・今川義元は桶狭間で休息を取り、先陣との距離が離れて本隊だけ孤立していた。
・休息時に地元民の歓待を受け、鎧を脱いで宴会を始めた
・その情報を信長が素早くゲット。奇襲を仕掛ける。
・奇襲に向かう時天候が豪雨となり、気付かれることなく奇襲に成功
・宴会で油断していた今川軍は負けてしまった
ざっとこんな感じです。
しかし色んな文献や実地調査の結果から、色々と異説が唱えられています。
実は奇襲じゃなくて正面攻撃だったとか、宴会はしてないとか・・
その中で一番の論点なのは、「桶狭間」はどこなのか?ということ。
「桶狭間」という地名は実は存在しないらしいのです。「狭間」というのはいわゆる窪地のこと。その近くにある窪地は田楽狭間という名前です。もし桶狭間があるとすれば、それは「桶狭間山」らしいのです。
山の上に奇襲をかけるというのは戦術的にすごく難しい。山の上ですから当然見通しが良いので見つかりやすいですし、仮に見つからなかったとしても、一般的に高所にいる方が有利に戦えるというのが定説だからです。
今川義元は強い武将でしたから、敵の奇襲を警戒して狭間ではなく山の上に陣を張るというのは自然なことです。
ではどうやって今川軍は負けてしまったのか。ここからは私の自説になります。
まず、義元はおそらく山の上に陣を張っていたのでしょう。
では信長は奇襲ではなく正面突破で勝ったかというとそれも違うでしょう。多少油断があっても今川軍は織田軍の5倍以上の兵力を有していましたから、さすがに無理があります。
なので奇襲したのも確実だと思います。
ではなぜ奇襲は成功したのか。
ズバリ、「豪雨」のおかげ。だと思います。
かねてからの定説通り、豪雨で見通しが悪くなり馬蹄の音などを雨音がかき消して奇襲が気づかれなかったというのは実際にそうでしょう。
しかしさすがにそれでも至近距離まで迫れば今川軍も山の上から見ているので気づきます。多少対応は遅れたものの対応できたはずです。
問題は、高所の有利がなぜ発揮されなかったのか。私は、それにも「豪雨」が影響しているのではないかというのが私の主張です。
豪雨で足元はぬかるんでいたはず。足元が悪くなると、当然滑りやすい。滑らないように気を付けながら戦うわけですが、日常生活で考えてみれば簡単です。雪の日に階段を上り下りしたりする時、怖いのはどっちか。
違う人がいたら恐縮ですが、普通は下りの方が滑りやすくて怖いはずです。
つまり、豪雨で高所が有利という定説が覆され、登ってくる織田軍の方が優位に戦えたのではないか。と思います。
どうですかね?我ながら有力な説だと思うのですが。
ともあれ長々と私の趣味の駄文にお付き合いいただきありがとうございました。
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